広村堤防

 1854年の安政南海地震に際し、いち早く津波の来襲を察知し、その年の収穫物である稲わら束に火を放ち注目させ、村人を避難させた浜口梧陵。後年、その話を小泉八雲が聞き、神様でなければ出来ない事だと感動し「A Living God(生き神様)」という分を書いて外国に紹介した。安政地震から100年、この話は地元ですら忘れ去られていたが、中井常蔵という中学教師が、英語の教材として読んだ小泉八雲の「A Living God」に感動し、「稲むらの火」という物語を作った。「稲むらの火」は昭和十年代の小学校では必ず扱われる有名な物語となった。
 浜口梧陵は12歳で千葉に養子に出され、ヤマサ醤油の当主となっていた。たまたま故郷の和歌山、広村に帰省中に安政南海地震に遭遇した。「稲むらの火」は創作なので、主人公は老人であるが、1854年には35歳だった。安政南海地震のあと、浜口梧陵は、将来も津波が襲って来るに違いないと考え、私財をなげうって堤防を築いた。それが広村堤防。
 しかし、安政南海地震から数十年も過ぎて、人々は「稲むらの火」が世に出るまで、このことを忘れてしまった。1946年に昭和南海地震が発生し、大津波が再び広村を襲った。広村堤防のおかげで、村の大部分は守られたが、なんと堤防の外側に学校や住宅が出来ており、ここで二十数名の方が亡くなった。
 昭和南海地震から60年経ちました。昭和南海地震は、南海地震としては小さめだった。前回の地震の規模が小さいと、次回の地震までの発生期間が短くなる(タイム・プレディクタモデル)。次回の南海地震は2030年頃ではないかと考えられています。


広村堤防。今でも現役です。ただし、この高さではたまたま標準よりも小さかった昭和南海地震の津波には有効だったものの、標準的な南海地震における津波は防げないと考えられている。


堤防の先には港があります。今でも中学校は堤防の外にある。


醤油発祥の地なんだそうな。ここから千葉に移り住んだ者が千葉で醤油を作ったらしい。


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